天部の神である風神と雷神を描いた「風神雷神図屏風」(京都・建仁寺蔵)で有名な日本美術の流派の一つ「琳派(りんぱ)」。琳派は、安土桃山時代後期に本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と俵屋宗達(たわらやそうたつ)といった2人の画家によって始まった流派です。
安土桃山時代は、武力による天下統一を成し遂げた織田信長が建てた安土城と、豊臣秀吉が建てた大坂城(桃山城)にちなんで名付けられました。この時代は茶の湯の隆盛、またヨーロッパとの貿易が盛んに行われるようになったため西洋文化の「南蛮文化」がもてはやされさり、芸術や工芸では雄大さや豪華絢爛なテイストも見受けられるようになりました。そして、安土桃山時代に発展した伝統的な日本の舞台芸術が「能楽」です。能は、歌舞伎の起源となった演劇の一形態であり、神話や仏教の教えを劇化したものです。
このような時代に始まった、本阿弥光悦と俵屋宗達による琳派の潮流を大成したのが、尾形光琳(おがたこうりん)です。彼の名前の「琳」という字から、琳派と呼ばれるようになりました。さらにその後、酒井抱一(さかいほういつ)や鈴木其一(すずききいつ)といった江戸琳派の画家たちによって、琳派が江戸の世に定着し、近代まで続いたと言われています。
芸術の流派は、能楽や歌舞伎などのように家系に直結するイメージがありますが、琳派は血のつながりや縁故がなくても、志を同じくする画家であれば「私淑(ししゅく)」として流派を継承できるのが特徴です。私淑とは、直接に教えは受けませんが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。琳派が長い間繁栄して、優秀な画家を多数輩出できたのは、こういった家系によらない自由な背景が存在していたからでしょう。
この度、京都にある「細見美術館」では、江戸琳派を確立した酒井抱一に憧れ、慕った絵師たちによる江戸琳派の軌跡とその魅力を体験できる展覧会「琳派展 24 抱一に捧ぐ ―花ひらく〈雨華庵うげあん〉の絵師たち―」が、2025年2月2日(日)まで開催中です。
酒井抱一(1761~1828)は、姫路酒井家の次男として江戸の大名屋敷で育ち、20代の頃には肉筆浮世絵美人画や狂歌に親しむなど快活な青年時代を過ごしますが、37歳で出家して大名家の身分を離れます。絵師として活動する拠点を求め、50歳を目前にした文化6年(1809年)師走、身請けした遊郭・吉原の遊女とともに移り住んだのが下谷根岸の百姓家でした。同所はのちに「雨華庵うげあん」と呼ばれるようになります。
貧困や借金のため、苦界と呼ばれる吉原の妓楼へ身売りされた遊女たち。彼女たちは妓楼で働きながら借金返済のため、最長10年間、吉原を出ることが許されなかったといいます。まさに籠の鳥のような人生を送っていたのです。しかし、この苦界を脱出できる唯一の方法がありました。それは「身請け」です。客が遊女の身代(みのしろ)金を肩代わりして、自分の妻や妾にすること。酒井は、身請けした遊女の香川(のちに小鸞)と長い苦労の末に結ばれたのです。二人は心底愛し合っていたのでしょう。
次に、本展覧会をみていきましょう。
第1章 酒井抱一の画所(アトリエ)<雨華庵>
抱一が50歳を迎える前年の歳暮、文化6年(1809年)12月から没年(文政11年(1828年)11月)まで、約18年間を過ごした雨華庵。有名な《夏秋草図屏風》(重要文化財・東京国立博物館蔵)をはじめ、多くの抱一の作品がここで描かれました。雨華庵近辺には、抱一の親友で儒学者の亀田鵬斎(1752年~1826年)の住居もあり、下谷根岸は文人墨客が集う地でした。
吉原にも近く、抱一は雨華庵と吉原を拠点として江戸の文化人との交流を深めました。また、出家した抱一は雨華庵で仏事を行い、仏画も手掛けています。
雨華庵への転居直後に描かれた《紅梅図》、画僧としての矜持に満ちた《青面金剛図》、《吉原月次風俗図》ほか吉原に因む作品には、定番の華麗な花鳥図とは異なる抱一の一面が見出されます。雨華庵を安住の地とした抱一の根岸暮らしに思いを巡らせてみてください。
《紅梅図》酒井抱一 画 小鸞 賛
本図は、文化6年(1809年)に、抱一と香川(のちに小鸞)の二人が下谷根岸に転居した後、初めての新年に描いた記念碑的作品です。
抱一が紅梅を描き、小鸞が漢詩を書いています。小鸞には漢詩や書の素養があり、抱一との合作が散見され、本図はその早い作例です。漢詩には「雪を踏み分けて行く事も二人ならば労を厭わない。春は遠いが(梅の)よい香りは漂って来る」とあります。
伸びやかな梅の枝と、整った書風の賛が呼応し、二人の強い愛と絆をうかがわせる極めて素晴らしい作品です。抱一の初期作《松風村雨図》とともに、長く酒井家に秘蔵されてきたとみられます。
第2章 継承される雨華庵 2世鶯蒲(おうほ)や愛弟子たち
雨華庵では多くの弟子たちが抱一の指導を受け、次世代の江戸琳派絵師に育っていきました。抱一の高弟としては鈴木其一や池田孤邨(いけだこそん)が著名ですが、雨華庵そのものを継いだのは、市ヶ谷の浄栄寺から養子に迎えた酒井鶯蒲(雨華庵2世 1808~41年)です。雨華庵は表向き寺坊「唯信寺」として継承されました。
鶯蒲は34歳の若さで没し、以前はよく知られていませんでしたが、近年の研究で早くから抱一の薫陶を受け、2世にふさわしい力量を得ていたことが明らかになりました。また、抱一の直弟子やその弟子たちが雨華庵周辺にあって、若き鶯蒲を支えていました。
本章では、その中から特に山本素堂(生没年不詳)やその長男光一(1843年?~1905年?)に注目。素堂の新出《朱楓図屛風》には、彼が光琳以来の琳派の伝統的な絵画様式を、抱一を通じて確かに獲得した実力者であることが明確に示されています。
《旭日に波濤鶺鴒図(きょくじつにはとうせきれいず)》酒井鶯蒲
波間から昇る朱色の旭日に金砂子の霞がかかり、今まさに日の出という高揚感が伝わってきます。岩は、塗った墨がまだ乾かないうちに、濃度の違う墨を加えることで生じる滲みなどを利用した琳派独特の技法「たらし込み」を用いて質感が表現されており、緑の苔が趣を添えています。二羽の鶺鴒は『日本書紀』の国生み伝説に因む、吉祥・夫婦和合、すなわち夫婦の変わらぬ愛の象徴です。雨華庵 2世、鶯蒲作品の中でも有数の大作です。
第3章 雨華庵再興 4世道一の活躍
2世鶯蒲の甥で養子として雨華庵3世を受け継いだ鶯一(おういつ)(1827年~1862年)も早世したため、作品も記録も稀少でした。その没後、慶応元年(1865年)に雨華庵は不審火で焼失。翌年素堂の次男、道一(1845年~1913年)が鶯一の娘と結婚し、4世として雨華庵を再興しました。
明治期の新たな機運の中で道一の活躍は目覚ましく、一門の他の江戸琳派絵師ともども各種の博覧会等に次々と出品。のちに、皇室の御用も手掛けました。
本章では、抱一や其一の画風を基盤とした道一の明快な作風が、主に《白牡丹図》や《葛に女郎花図》をはじめとする草花図において顕著に認められることが理解できるでしょう。一方《蓬莱図》や《猪八戒図》には独自の造形意識も指摘されます。新時代における江戸琳派の旗手として幅広く充実した絵画制作を行った道一の魅力を、多様な道一作品の数々から浮かび上がらせます。
《白牡丹図》 酒井道一
道一は抱一の優麗な作風におおらかな独自性を加え、明治期の江戸琳派を牽引する役割を積極的に果たしました。
匂いたつような白牡丹と、滲みを利かせた黒い岩を取り合わせた本図から、雨華庵4世を掲げる道一の気概が伝わってきます。牡丹の構図は大輪の花を後ろ向きに捉えるなど抱一風ながら、岩の形には《蓬莱図》に通じる鷹揚さが見られ、淡雅で豊かな画風を前面に打ち出しています。
第4章 江戸琳派の末裔 5世抱祝による顕彰
大正期から戦後に至るまで、雨華庵5世を担ったのは酒井唯一こと抱祝(1878年~1956年)です。父・道一に倣い、代々受け継がれてきた江戸琳派様式の普及に努め、作例も少なくありません。
《十二ヶ月花鳥図屏風》には抱一の《十二ヶ月花鳥図》シリーズを彷彿とさせる月次の花鳥が、モチーフや構図と再現され、かつ大変簡素に描かれています。《高砂図》には「抱一5世」の署名があり、画系の継承と画風の顕彰に誇り高く臨んでいたことがうかがわれます。これらの抱祝作品は、新年や慶事の贈答品として、昭和初期まで江戸琳派の需要が高かったことを顕著に示すとともに、その終焉をも示唆しています。
18世紀末に抱一が琳派様式を描き始めて以来、150年以上にわたり続いた江戸の琳派様式。それを描き継いだ雨華庵ゆかりの絵師たちの活躍は、戦後の生活様式の変化とも相まって終息の時を迎えました。
《十二ヶ月花鳥図屏風》酒井抱祝
1年12ヶ月の各月に因んだ植物に、鳥や昆虫などを取り合わせた花鳥図が六曲一双屏風に貼られています。このような十二ヶ月花鳥図は、抱一が晩年の60歳代に数多く手掛けたことが知られています。その洒脱ながら華やかで季節感溢れる情景が共感を得たのか、抱一以降も江戸琳派の絵師たちは度々手掛けており、抱祝による本作は、現在知られるうちで最も新しい作品です。各月とも抱一作に祖型が認められる主題と構成で、抱一の画風をより簡潔なかたちで伝えています。
以上、京都・細見美術館にて開催中の琳派展 24「抱一に捧ぐ ―花ひらく〈雨華庵〉の絵師たち―」についてご紹介しました。抱一に憧れ、慕った絵師たちによる百数十年に及ぶ江戸琳派の軌跡とその魅力をぜひご堪能ください。
■琳派展 24「抱一に捧ぐ ―花ひらく〈雨華庵〉の絵師たち―」
開館時間 :10時ー17時
休館日 : 毎週月曜日(祝日の場合、翌火曜日)、年末年始(12月26日〜1月6日)
入館料 : 一般 1,800円 学生 1,300円
※学生の方は学生証をご提示ください。
※障がい者の方は、障がい者手帳などのご提示で100円引き
場所:細見美術館
京都市左京区岡崎最勝寺町6-3
Tel. 075-752-5555(代)
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岡山芸術交流実行委員会は、岡山市中心部の岡山城・岡山後楽園周辺エリアで開催する、街歩きしながら最先端の現代アートなどに出会える3年に1度の国際現代美術展「岡山芸術交流2025」(会期:2025年9月26日(金)~2025年11月24日(月)、計52日間)の鑑賞料を無料とすることを決定しました。
これは、誰もが街歩きとともに楽しめる、より開かれた展覧会を目指していたところ、アーティスティック・ディレクターのフィリップ・パレーノ氏から「屋外の都市空間を多く活用し、岡山の街自体が作品になる」という構想(ステイトメント)が示されたことによるもの。3回目までとは発想の転換を行い、今まで無料だった屋外展示に揃え、原則有料だった屋内展示も含め、より多くの人が鑑賞・参加できるように、すべての会場で鑑賞料を無料とするとのことです。
なお、2016年から3年ごとに開催している岡山芸術交流において(過去3回開催)で鑑賞料を無料とするのは今回「岡山芸術交流2025」が初となります。
このような試みを通じ、「地域の人々を含む、より多く幅広い人々にこの地域に根付いた国際現代美術展に参加してもらうこと」「これからのAI共存時代を担う多くの子どもに、世界的な現代アート作品などを生で体験する貴重な機会を提供すること」という今回の岡山芸術交流2025が重点的に取り組むビジョンを形にしていくそうです。
■「岡山芸術交流2025」
会期:2025年9月26日(金) ~11月24日(月)
アーティスティック・ディレクター:フィリップ・パレーノ氏
タイトル:The Parks of Aomame / 青豆の公園
宮城県・多賀城市にある「多賀城」は神亀元年(724年)に創建され、令和6年(2024年)に創建1300年を迎えます。この記念すべき年を東北全体でお祝いするため、多賀城創建1300年記念イベントが、令和6年11月23日(土)、24日(日)、30日(土)、12月1日(日)、7日(土)、8日(日)に開催されました。
イベントとしては、3Dホログラム技術で多賀城正殿が現代に甦る「多賀城政庁跡正殿3Dホログラム復元イベント」をはじめ、多賀城創建1300年記念オリジナルクラフトビール「いやしけよごと」や多賀城市内外の特産品を使用したフードなどが楽しめる「BARブース」の出店、2日間限定で宮城県内の人気グルメが集結する「グルメブース」の出店、そして最終日のフィナーレには多賀城市出身ヴァイオリニスト「郷古廉氏のソロコンサート」が行われました。光・音・食の「吉事(よごと)」で「夜事(よごと:ナイトコンテンツ)」を存分に楽しめるイベントで、大盛況のうちに幕を閉じました。
次に、3Dホログラム復元イベントと、ヴァイオリニスト 郷古廉氏によるソロコンサートについてみていきましょう。
1.多賀城政庁跡正殿 3Dホログラム復元イベント・南大路ライトアップ
多賀城政庁正殿跡を会場に、1300年の時を経て、現代のデジタル技術によって「多賀城」が甦りました。日本を代表するデジタルクリエイター達が集結し、3Dホログラムと音楽によって、多賀城が再現される特別な夜となりました。時代を越えた奇跡の夜を体感するため、小さなお子さん連れの方々を含む、大勢の来場者が訪れました。
2.多賀城市出身ヴァイオリニスト 郷古廉(ごうこすなお)氏 ソロコンサート
多賀城跡 城前官衙 特設ステージでは、NHK交響楽団第1コンサートマスターを務め、現在国内外で最も注目されている若手ヴァイオリニストのひとりである郷古廉氏によるソロコンサートが開催されました。本演奏会のために、県内在住の作曲家である吉川和夫氏が
書き下ろした「無伴奏ヴァイオリンのための『レゲンデ(伝説曲)』」など2曲が披露され、観客を魅了し、会場を感動で包み込みました。