執筆者:遠藤友香
2007年4月、ニューヨークを拠点に活躍したアーティストのキース・へリングを紹介する世界で唯一の美術館として、自然豊かな八ヶ岳の麓に位置する小淵沢に開館した「中村キース・へリング美術館」。
わずか31年という短い生涯ですべてを表現し、希望と夢を残したキース・へリング。アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキアなどと同様に、1980年代のアメリカ美術を代表する一人として知られています。
中村キース・へリング美術館は、館長の中村和男が蒐集した、キース・へリングのおよそ300点の作品のほか、映像や生前に制作されたグッズなど500点以上の資料を収蔵しています。本館はキース・へリング・コレクションを公開するだけでなく、アートを通して社会に問題提起を行い続けたキース・へリングの作品と、彼の遺志を引き継いだ活動を行うことを目標にしているといいます。
八ヶ岳の美しい自然の中で、静かにキース・へリングの作品と向き合い、そのエネルギーを感じるとともに、現代を生きる私たちにとってリアルな課題であるHIV・エイズや感染症、SDGs、LGBTQ+、戦争と平和、子供の健やかで自由な成長、環境問題などをともに考える美術館を目指しています。
そんな中村キース・へリング美術館では、来年2025年に戦後80年を迎えることを受けて、キース・へリングの反戦・反核を訴える取り組みを辿り、作品に込められた「平和」と「自由」へのメッセージを改めて現代の視点から紐解く展覧会「Keith Haring: Into 2025 誰がそれをのぞむのか」を、2025年5月18日まで開催中です。
キース・へリングは、明るく軽快な作風で知られる一方、作品の根底には社会を鋭く洞察する眼差しがありました。彼は、時にユーモラスに、時に辛辣に社会を描写し、平和や自由へのメッセージを送り続けました。
本展は、キース・へリングが社会の動向に関心を抱くようになった経緯として、彼の幼少期のエピソードの紹介からスタートします。故郷を離れニューヨークへ移ったキース・へリングは、1980年代のアメリカを取り巻く社会情勢を背景に、反戦・反核運動に参画するようになります。それは徐々に、世界各国でのパブリックアート制作、医療・福祉団体との協働、子供たちとのコラボレーションへと発展していきました。今回の展覧会では、いくつかの事例を通してその変遷を辿ると同時に、中村キース・へリング美術館のキース・へリングのコレクションの中でも抽象的な作品を並置することで、社会的背景を踏まえた視点から、彼の抽象表現を鑑賞することを提案します。
次に、おすすめの作品をピックアップしてご紹介します。
キース・へリングが幼少期を過ごした1960年代は「スペース・エイジ」と呼ばれ、長期化する冷戦を背景に技術開発競争が活発化し、宇宙開発やインターネット普及の研究が進むなど、現代において欠かせなくなった情報技術の礎が築かれた時代でした。
普及したばかりのカラーテレビに映る原色の光景に衝撃を受けたキース・へリングは、「初めてテレビ放送された戦争」といわれるベトナム戦争を、ブラウン管を通して体験したことなどから、世界の動きに強い関心を持ち、雑誌などを通して好奇心のおもむくままに知識を深めていきました。
彼は1982年に次のように語っています。
「1958年に生まれた私は、宇宙時代の最初の世代であり、テレビ技術と容易に得られる満足感に満ちた世界に生まれた。私は原子時代の子供だ。60年代のアメリカで育ち、ベトナム戦争に関する『ライフ』の記事を通じて戦争について学んだ。白人中流階級の家庭で、暖かなリビングルームのテレビ画面越しに安全に暴動を見ていた」。
このポスターは、核兵器を含む世界的な軍事縮小が協議された「第3回国連軍縮特別総会」に合わせて、ニューヨークとサンフランシスコで行われた核に対する抗議活動のために、1988年に制作されました。ニューヨークでは、1982年の米国史上最大規模といわれる反核デモ以来の大規模な集会で、ニューヨークの国連本部のそばにあるダグ・ハマーショルド・プラザには、朝9時から大勢の人が集まり、反核を訴えるスピーチなどが行われました。
1961年、東西に分断されたドイツにおいて、東ドイツ政府が国民の流出を防ぐために建設したベルリンの壁。「チェックポイント・チャーリーの家(現:チェックポイント・チャーリー博物館)」より壁画制作の依頼を受けたキース・へリングは、1986年10月にベルリンを訪れました。
彼は、壁の100mほどの範囲を両国の国旗にちなんで黄色に塗り、その上に黒と赤で連鎖する人々を描きました。その後、この壁画はすぐに他のアーティストらによって上描きされ、1989年11月9日に壁が崩壊したため、この作品は現存しませんが、本展ではキース・へリングの活動を記録し続けたフォトグラファーのツェン・クウォン・チによる写真と当時のニュース映像より、制作風景や人々と交流するはキース・へリングの姿、そして分断された街の風景を紹介します。
《シティキッズ自由について語る》は、1986年にニューヨークの「自由の女神」完成100周年を記念して、キース・へリングとシティキッズ財団が開催したワークショップで制作された作品です。「CityKids Speak on Liberty(シティキッズ自由について語る)」の標語のもと、ニューヨークの1,000人の子供たちとともに制作したこの垂れ幕は、約27mの巨大なもので、本展では6mに縮小した再制作品と制作当時の記録写真、オリジナルの垂れ幕を映像で紹介します。
中村キース・へリング美術館では、キース・へリングと日本との関わりを主軸に調査活動を行ってきました。本展の企画にあたり、本館は1988年7月にキース・へリングが広島を訪れたことに着目。彼の広島訪問については、日記に記されている他に公式な記録がなく、同年に広島で行われたチャリティ・コンサート「HOROSHIMA ’88」のために、彼がメインイメージを手掛けたポスターやレコードが残るのみでした。日記を遡ると、壁画を制作することが広島への旅の目的であったことがわかりますが、実現には結びつかず広島にキース・へリングの壁画は存在しません。
次に、1988年7月28日の日記の一部を抜粋します。
「起きてロビーに行き、広島へ行くために福田夫妻と合流。空港まで車で移動し、飛行機で1時間半かけて広島に向かった。
(中略)
この後、私たちはみんなで広島平和記念資料館と平和記念公園を訪れた。そこは、広島の恐怖を生々しく記録している。この資料館を実際に訪れるまでは、爆撃の巨大さを想像することは不可能だ。
(中略)
資料館には、同じ時間帯に多くの子連れの家族がいた。もちろん、広島について読んだり写真を見たりはしていたが、これほどまでに感じたことはなかった。1945年に作られた爆弾がこのような破壊を引き起こし、その後核兵器のレベルと数が強化されているというのは信じがたい。
これが再び起こることを誰が望むだろうか? どこの誰に? 恐ろしいことは、人々が軍拡競争をおもちゃのように議論し、話し合っているということだ。彼らすべての男性は、安全なヨーロッパの国々の交渉のテーブルではなく、ここに来るべきだ。
(中略)
資料館を出てから、私たちは静かに公園を歩いた。誰もが理解し、話をする必要はなかった。平和記念公園と原爆ドームでは、いくつかの記念碑を巡った。ドームは爆撃後に部分的に残された建物で、巨大な破壊の記念として保存されている」。
中村キース・へリング美術館館長 中村和男氏
中村キース・へリング美術館館長の中村和男は「今の時代に何が起こっているのか、この核兵器というものに対して、僕らは鈍感になってしまって、今、ウクライナの中で戦術核を使おうといった動きもあるじゃないですか。そんな中、キース・ヘリングのあの素直に感じた感覚、それが広島にあったんです」と語っています。
以上、中村キース・へリング美術館で開催中の展覧会「Keith Haring: Into 2025 誰がそれをのぞむのか」をご紹介しました。キース・へリングの反戦・反核を訴える取り組みを通じて、ぜひ「平和」と「自由」への想いを、一人ひとりが強く持ち続けて欲しいと思います。
■「Keith Haring: Into 2025 誰がそれをのぞむのか」
会期:2024年6月1日(土)-2025年5月18日(日)
会場:中村キース・ヘリング美術館
山梨県北杜市小淵沢町10249-7
休館日:定期休館日なし
※展示替え等のため臨時休館する場合があります。
開館時間:9:00-17:00(最終入館16:30)
観 覧料:大人 1,500円/16歳以上の学生 800円/
障がい者手帳をお持ちの方 600円/15歳以下 無料
※各種割引の適用には身分証明書のご提示が必要です。
Keith Haring: Into 2025 誰がそれをのぞむのか|中村キース・ヘリング美術館 (nakamura-haring.com)