執筆者:遠藤友香
KYOTOGRAPHIEコンシェルジュによる総合・周辺観光案内所「インフォメーション町家 八竹庵(旧川崎家住宅)」では、レンタサイクルの貸し出しも。
世界屈指の文化芸術都市・京都を舞台に開催される、日本では数少ない国際的な写真祭「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」。国内外の気鋭の写真家による作品が、2024年5月12日まで、趣のある歴史的建造物や近現代建築といった、京都ならではのロケーションを舞台に展開されています。
12年目を迎えた「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024」のテーマは「Source」。生命、コミュニティ、先住民族、 格差社会、地球温暖化など、 10カ国・13アーティストの多様な視点による12プログラムを開催中です。
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の共同創設者・共同代表であるディレクターのルシール・レイボーズと仲西祐介は、今回のテーマについて、以下のように語っています。
「源は初めであり、始まりであり、すべてのものの起源である。 それは生命の創造であり、衝突が起きたり自由を手に入れたりする場所であり、何かが発見され、生み出され、創造される空間である。 人生の分岐点にかかわらず、私たちは岐路に立っており、原点に戻るか、 新しいことを始めるかの間で揺れ動いている。 生命、愛、痛みのシンフォニーが響き渡るのは、この神聖な空間からなのだ。 その源で、無数の機会が手招きし、何か深い新しいものを約束してくれる。 2024年、KYOTOGRAPHIE は12の会場で13の展覧会を展開し、 SOURCE を探求し、オルタナティブな未来を望む」
(左から)仲西祐介、ルシール・レイボーズ
この度、ルシール・レイボーズと仲西祐介に、芸術各分野において毎年優れた業績をあげた者、又はその業績によってそれぞれの部門に新生面を開いた者を選奨する「令和5年度(第74回)芸術選奨文部科学大臣賞」が贈られました。
贈賞理由として、東日本大震災後に東京から京都に居を移し、わずか2年で「KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭」を創設。国内外から多数の写真家を招聘し、10年の間に世界有数の写真祭に育て上げたことが挙げられています。2023年には、音楽フェスティバル「KYOTOPHONIE」も開催。二人との関わりが深いフランス、アフリカ諸国、ブラジルなどの表現者を日本に紹介したことは、特に意義深いとのこと。活動拠点を京都市内の出町桝形(ますがた)商店街に置き、地元コミュニティーとの交流も積極的に行っています。
では、早速「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024」のおすすめ作品をみていきましょう。
1.ジェームス・モリソン《子どもたちの眠る場所》/京都芸術センター
京都芸術センターが校舎を跡地活用する明倫小学校は、全国に先駆けて誕生した学区制小学校「番組小学校」のひとつで、1869年(明治2年)に開校しました。現在の建物は1931年(昭和6年)に改築された戦前の小学校建築の特徴をそのまま残し、1993年(平成5年)に閉校したのち、2008年(平成20年)に国の登録有形文化財に登録されています。
2000年(平成12年)4月、京都市、芸術家、その他芸術に関する活動を行う人々が連携し、京都市における芸術の総合的な振興を目指して、京都芸術センターが開設されました。
そんな京都芸術センターでは、ジェームス・モリソンによる《子どもたちの眠る場所》が展開されています。ジェームス・モリソンは今から20年近く前、子供の権利に関わるアイデアを考えるよう依頼され、自分の幼少期のベッドルームについて思考を巡らせました。
子供時代にベッドルームがどれほど重要であったか、そしてその寝室が自分の持ち物や、自分という人間をどのように映し出していたか。そこで、子供たちに影響を及ぼしている複雑な状況や社会的課題について思考する方法として、様々な境遇の子供たちの寝室に目を向けるのはどうかと思い至ったといいます。
最初から、発展途上国の「恵まれない子供たち」のことだけを取り上げるのではなく、もっと包括的な、あらゆる境遇の子供たちのことを取り上げたいと考えていたといいます。
例えば、エバレット(4歳)は一人っ子。アメリカ・ミシガン州リボニアの一軒家に両親と住んでいます。ここは住民間の結びつきが強いコミュニティで、彼にはたくさんの友達がいます。この地域はもともと、デトロイトから移り住もうとする自動車産業労働者のために開発されました。リボニアは長年、白人以外の住民を歓迎せず、アメリカで最も白人の多い街のひとつとして知られていました。エバレットの母親を含む何人かの住民は、最近この地区の差別的な過去を糾弾し、多様性を促進する声明を発表しました。
エバレットの両親は、骨董品、美術品、バーボン、時計など、様々な品を収集するコレクターです。エバレットは、大好きなスーパーヒーローのスパイダーマンのおもちゃを何百個もコレクションしています。アメリカのスーパーマーケット「ターゲット」で売られているスパイダーマンのおもちゃを片っ端から買った後、ヴィンテージのフィギュアを集め始めました。エバレットは、スパイダーマンが宿敵ヴェノムと戦う夢を見ました。大人になったら、マーベルでスーパーヒーローを作る仕事をするか、消防士になるのが夢です。
シンタロウ(13歳)は、横浜で父親と妹と暮らしています。彼の母親は1年前、米農家である高齢の父親宅へ物を届ける途中に、交通事故で亡くなりました。その遺灰は、子供たちが母の存在を感じ続けられるように、家に置かれています。
シンタロウは週3回サッカーをし、身長を伸ばすために毎晩10時間は寝るようにしています。昨年、父親と妹は6週間のオーストラリア旅行に出掛けましたが、シンタロウはサッカーの練習を休みたくないと断りました。家に誰もいない寂しさはありましたが、自分で食事を用意し、学校にも行くことができました。最近ではアルゼンチンで5週間のトレーニング合宿に参加し、寮で他の少年たちと寝泊りしましたが、寂しさを感じることはありませんでした。彼の夢は世界一のサッカー選手になることです。
ライアン(13歳)は普段はアメリカのペンシルベニア州で両親と2人の姉妹と暮らしていますが、今は11歳から16歳までの肥満児が通う学校の寮で暮らしています。9歳のときに見つかった脳腫瘍が原因で、「プラダ―・ウィリ症候群」という食欲が旺盛になる遺伝性疾患を患っています。このためライアンの体重は大幅に増えましたが、この学校に通い始めてから9キロの減量に成功しました。友達とまた野球ができるように、できるだけ体重を減らしたいというのが彼の願いです。
この学校では、スープ、果物、野菜などの低カロリー食品が無制限に提供されるとともに、ヘルシー仕様のピザやパスタが用意されるため、ライアンは食事の時間に気を揉むことが少なくなってきました。というのも、家にいたときのように常にお腹が空いているということがないからです。全生徒は一日一万歩歩かなければなりません。ライアンは、自分を病気から救ってくれた医療関係者に感謝して、大きくなったら医者になりたいと考えています。
ハムディ(13歳)は、ヨルダン川西岸のベツレヘム校外にあるパレスチナ難民キャンプで、両親と5人の兄弟とともにアパートに住んでいます。彼らの家には、居間、キッチン、寝室が3つあります。このキャンプはもともと、1948年に国連が設置した一時的なものでした。それから60年以上経った今、当時の3倍の数の住民が暮らしています。超過密状態です。
ハムディは男子校に通っており、十分に勉強して学位を取り、自分よりも良い機会を得ることを父親は望んでいます。ハムディはベツレヘムの路上で暴力を受けた経験があります。16歳の異母兄はイスラエル占領に反対するデモの最中に兵士に殺され、ハムディは9歳のとき、戦車に乗ったイスラエル兵に立ち向かったために足を撃たれました。彼の負傷は、さらなる抵抗を思いとどまらせるものではありませんでした。
2.クラウディア・アンドゥハル《ダビ・コぺナワとヤマノミ族のアーティスト》/京都文化博物別館
20世紀に入ると、三条通には洋風の建物が次々と建てられました。旧日本銀行京都支店、現京都府京都文化博物館別館はその代表でしょう。赤レンガに白い花崗岩のストライプという華やかな意匠で、すぐさま界隈のランドマークとなりました。設計者は日本の近代建築の先駆者である辰野金吾と、その弟子の長野宇平治。レンガ造りの建物は、19世紀イギリスのクイーン・アン様式をもとに辰野がアレンジした「辰野式」で、当時の最先端でした。
本展は、ブラジル人アーティストで活動家のクラウディア・アンドゥハルと、ブラジルの先住民ヤマノミとのコラボレーションを発表する日本初の展覧会です。ヤマノミはアマゾン最大の先住民グループのひとつであり、ベネズエラからブラジルにまたがる地域で暮らしています。
クラウディア・アンドゥハルは1931年にスイスでユダヤ教徒の父と、カトリック教徒の母の間に生まれ、ルーマニアのトランシルヴァニア地方で育ちました。ナチスドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺「ホロコースト」を生き抜いたアンドゥハルは、1946年にニューヨークに渡ります。その9年後にはブラジル・サンパウロに移り住み、その地で写真家としてのキャリアをスタートさせました。
アンドゥハルが写真家として特に強い関心を寄せたのは、社会的弱者のコミュニティでした。1971年、アンドゥハルはブラジル北部のヤマノミの居住地域を初めて訪れます。この出会いが、アンドゥハルのライフワークの出発点となりました。彼女にとって、アートはヤマノミの人々のための意識啓蒙や政治的活動のツールとなったのです。
本展覧会の後半では、《ヤマノミ・ジェノサイド:ブラジルの死》と題した映像と音声によるインスタレーション作品が展示されています。この作品は、非先住民社会による侵略がヤマノミ居住地域にもたらした脅威を告発。特に、ブラジルの軍事独裁政権(1964ー1985年)が推進したアマゾン占領政策によって、ヤマノミの置かれた状況はさらに悪化しました。
居住地域への侵入や違法行為がヤマノミにもたらす問題は、決して新しい問題ではありません。こうした問題は、ヤマノミだけでなく、ブラジル国内外の数多くの先住民を苦しめています。
アマゾンにおける破壊的行為や地球規模の気候変動危機がニュースでも大々的に取り上げられるようになった今、本展は世界各地の先住民の人々への理解や、その主権の拡大のためにアートが担う役割を示すものでもあります。本展は、ただの美術展にとどまらず、ヤマノミの人々の存在を可視化し、新たな脅威から守り続けるための基盤となるものです。
3.ヴィヴィアン・サッセン《発行体:アート&ファッション 1990‐2023》/京都新聞ビル地下1階
御所の南西にある京都新聞ビル。その地下には、2015年まで印刷工場がありました。地下1階から2階まで高さ10m弱、約1,000㎡に及ぶ空間で、輪転機が稼働していました。ここにいると、いまだにインキの香りがふと鼻をかすめます。印刷工場だった時代は、まだ過去にはなっていません。様々な用途に使われるスペースとして、再び命が吹き込まれたかのようにも見えます。
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭では、ヴィヴィアン・サッセンの日本初となる大規模個展を開催中です。本展は2020年から続くMEP(ヨーロッパ写真美術館 フランス・パリ)とのパートナーシップの一環であり、2023年にMEPで開催されたヴィヴィアン・サッセンの回顧展の巡回となります。
本展では、多様性溢れる十数のシリーズ作品を展示するとともに、過去作、未発表作品、ビデオインスタレーションなど、200点以上の作品を通じて、ヴィヴィアン・サッセンの30年にわたる創作活動の足跡を辿ります。キュレーターのクロチルド・モレットは、「表層と深層、静謐さと力強さという両極で揺れ動きながらも、そのあわいにある本質を浮かび上がらせることで、サッセンがいかに作品を繊密に作り上げていくかについて迫る」と述べています。
ヴィヴィアン・サッセン(1972年生まれ、アムステルダム在住)は、ファッションデザインを学んだ後、オランダのユトレヒト芸術大学で写真に取り組みました。1992年に卒業してからは、アーティストおよびファッションフォトグラファーとして写真に専心します。そうしてアートとファッションという異なる2つの領域を横断することで、作品における鮮やかな色彩、仕掛け、フレーミング、被写体へのアプローチにおいても異彩を放ち、唯一無二で多彩な視覚表現を生み出しています。
子供の頃にアフリカで育ったバックグラウンドや、文学や美術史も、ヴィヴィアン・サッセンにインスピレーションを授けています。またシュルレアリスムの遊び心、曖昧さ、神秘性にも通じるものを見出し、作品にもその影響が見受けられます。死、セクシャリティ、欲望、他者ーそのすべての関わりが、写真や映像、ペインティング、コラージュを組み合わせる作品群を構成するモチーフへと昇華されています。
4.ティエリー・アルドゥアン《種子は語る》/二条城 二の丸御殿 台所・御清所
二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府を開闢(かいびゃく)した徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として築城しました。1867年(慶応3年)には、15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことでも知られています。徳川家の栄枯盛衰を見届け、日本の歴史の転換点の舞台でもあった二条城は、1994年に世界遺産となり、2017年には年間で国内外から約244万人が入城するなど、今日では日本でも有数の観光名所になっています。
本展は、写真家のティエリー・アルドゥアンとグザヴィエ・バラルおよびフランスの出版社「Atelier EXB」との長年のコラボレーションの一環として開催されています。ティエリー・アルドゥアンは、世界各国の500種以上の種子の写真を撮影。撮影された種子の大半が、フランス・パリの国立自然史博物館の所蔵品です。撮影にはオリンパスが開発した実体顕微鏡を使用し、被写体となる種子の選定やライティングには細心の注意を払っています。その結果、捉えられたイメージは意外性溢れる形態と美しさを提示しています。
ティエリー・アルドゥアンは本展のために、京都の農家が代々受け継ぎ栽培している「京野菜」の種子の撮影も行いました。種子の物語は、原始農業から現代のハイブリッドな種子に至るまで、果てしない多様性に満ちた世界における生命の生存戦略に改めて光を当てます。
キュレーターのナタリー・シャピュイは、種子について以下のように述べています。「種子は神秘的な存在です。種子を観察することは生命の歴史を紐解くことであり、人類誕生以前の自然界を再考・再認識することでもあります。
地球の気候が大きく変動した第三紀には、植物は新たな生息域を開拓し、適応していくことを迫られました。様々な試練を乗り越えるために必要なエネルギーを蓄えた貯蔵庫付きの小さなカプセル、すなわち種子は、多彩な移動戦略を編み出しました。カラフルな色彩で鳥を惹きつけるもの、翼を生やしたもの、防水性の外皮をまとって波に乗り流されるもの、風に飛ばされるもの、植物の毛皮にくっつくためのフックを備えたもの……何千年もの時間の中で、種子の旅は地球上に植物の豊かな多様性を生み出してきたのです。
野生の植物の栽培化や商品化を通じて、種子は人類文明の発展にも寄与してきました。新石器時代には、作物の栽培によって人類の定住が始まり、社会規範や土木技術が形成されます。古代では植物は学者たちにとって魅力的な研究テーマとなり、中世には物々交換や収集の対象でした。近代に入ると、種子は探検家たちとともに長距離を移動するようになります。農業、科学、美学、商業を背景とした人類の欲望に翻弄されながら、種子は今も世界中を駆け巡っています。
植物のエネルギーは国境を越えて広がり、その壮大なスケールの旅は地球の多様性の象徴となっています。種子は、政治や科学、知識が絡み合った、人間と自然の複雑な関係性を物語ります。種子を通じて、私たちの起源だけでなく、未来の世界像までもが見えてくるのです」。
5.柏田テツヲ《空をたぐる》/両足院(建仁寺山内)
両足院は中国の影響を色濃く受け、貴重な古漢や、漢籍・朝鮮本などの文化財も数多く所蔵する塔頭です。唐門からは四角い敷石が斜めに連ねられ、その先に印象的な円窓が配してあります。白砂に苔、青松の景色と相まって、長い歴史を体現するかのような様式美が強い印象を残しています。
大阪で生まれ育った柏田テツヲは、高校の3年間を野球留学(保護者の住む都道府県とは別の、かなり距離の遠い高校に入学し、野球部に所属することの意味)で宮崎県の山奥で過ごし、部活動で禁止されていたため携帯電話を持たずに暮らしました。多感な時期に情報から遮断された反動もあり、日々接する自然の移ろいや脅威に毎日のように心を動かされ、五感が研ぎ澄まされていったと語ります。19歳で写真による制作活動を始めるようになってからも、自ずと自然は作品作りのモチーフのひとつとなりました。
柏田テツヲは、屋久島で滞在制作をした作品で、2023年のKYOTOGRAPHIEのインターナショナル・ポートフォリオレビューの参加者から選ばれる「Ruinart Japan Award」を受賞。2023年秋にフランスのランス地方を訪れ、世界最古のシャンパーニュブランドであるルイナールのメゾンに、アーティスト・イン・レジデンスとして2週間滞在します。現地で職人たちと話したり、ブドウ畑やルイナールが再生を試みる森と対峙する中で、1、2度の気温変化でブドウの糖度が変わりシャンパーニュ作りに大きな影響を与えていることを知り、地球の温暖化がいかに自然環境に影響を与えているかを目の当たりにします。
一個人である自分に何ができるのかを考えながらブドウ畑を歩いていたとき、柏田テツヲは蜘蛛の巣に引っ掛かりました。ほとんど目に見えないながらも存在するという点で、蜘蛛の巣と地球の温暖化に通ずるものを感じ、インスピレーションを受けた作品を現地で滞在しながら制作しました。彼の手によりブドウ畑の葉をつたう様々な色の糸を用いて張り巡らされた「蜘蛛の巣」は、私たち人間の行いそのもののメタファーのようでもあります。温暖化という、目に見えない現象を引き起こしたり、はたまた影響を受けたりしながらも、地球とともに生きていく私たち人間の行いは、まるで空(くう)をたぐるようなものかもしれません。彼の作品は、生命の強さと儚さ、自然の多様性と希少性、そして人間の領分の有限と無限を紐解き、紐付けていくかのようです。
6.ジャイシング・ナゲシュワラン《I Feel Like a Fish》/TIME’S
商業施設や飲食店で賑わう三条木屋町の高瀬川沿いにそびえるコンクリートのビル「TIME’S」は、世界的に活躍する建築家・安藤忠雄の設計により、1984年に建てられました。敷地全体が水面レベルまで下げられ、川と建物が身近に感じられるのが特徴的。木屋町通りの桜が咲く春の眺望も素晴らしいものがあります。
龍馬通りには、1721年(享保6年)に創業した材木商「酢屋」があり、幕末には坂本龍馬をはじめ、多くの海援隊の隊士をかくまっていたという歴史を持っています。
ジャイシング・ナゲシュワランはインド出身の写真家。労働者階級で育ったという生い立ちを乗り越えるように祖母から教育を受けてきました。社会から疎外されたコミュニティの生活を写し取ることに重点を置き、ジェンダー・アイデンティティやカースト制、農村の問題をテーマとした作品を発表しています。
ジャイシング・ナゲシュワランは、自宅にある水槽の中の魚を見るたびに、自分自身を見ているようだと言います。魚には向こう側に広がる世界が見えています。しかし、生きるのに適切だと思われるその世界に魚が触れようとすると、目の前に壁が立ちはだかります。魚が生きて水槽から出るためには、奇跡を起こさなければなりません。インドのカースト制度は、そのような金魚鉢を数多く生み出しています。そしてカーストが低いほど、鉢のサイズは小さくなります。
ジャイシング・ナゲシュワランの祖母は、タミル・ナードゥ州の小さな村、ウシランパッティの出身でダリット系の家庭に生まれました。ダリットは数千年前から続くインドのカースト制度の最下層の人々のことで、「触れてはならない」カーストとして知られ、差別、排除、暴力に直面しています。そこで彼女はヴァディパッティに引っ越して、学校のないダリットも通えるような小学校を設立しました。彼女はナゲシュワラン家の最初の奇跡でした。のちにジャイシングもこの小学校に通いました。
ジャイシングが写真家になろうと決めたとき、自分のカーストを捨て、ダリットであることを忘れる唯一の方法は、都会に出ることだと考えました。父親は、差別が彼につきまとうだろうと警告しました。
長らくジャイシングは自分を第2の奇跡だと考えてきました。国際的な都市を転々とし、著名人を撮影し、映画の道へも進みました。しかし、写真を撮れば撮るほど、彼はダリットがインドの視覚的意識の中にほとんど存在しないことに気づきました。そして、ある日突然大病を患い貯金がなくなり、コロナウイルスにより故郷に戻ることを余儀なくされました。
今、ジャイシングは自分が生まれ育った土地の美しさを目の当たりにして、写真家としてキャリアを積んだはずの自分が持ち合わせていなかった親密な繋がりを実感しています。そうして気が付いたのです―自分が今、この世で一番失いたくないものは、家族と家なのだと。そしてこう語ります。
「私はもっと深く、金魚鉢の中に入ってしまったのです。私の仕事は、ダリット・コミュニティにおける現在進行形の虐殺行為を訴えることです。私は毎日のようにダリット・コミュニティの人々が殺されたり、カーストに基づく様々な虐殺行為を目撃したりするニュースで目を覚まします。アートを通じ私に生み出された意識には、もっと深い物語があることを実感しています。カースト制度が根絶される日が来るまで、私は金魚鉢の中の魚のように感じ続けるでしょう」。
7.川田喜久治《見えない地図》/京都市京セラ美術館
1928年(昭和3年)、京都で執り行われた天皇即位の大礼を記念して「大礼記念京都美術館」として開館した「京都市京セラ美術館」。関西の財界や美術界、市民の寄付により、鉄骨鉄筋コンクリート2階建ての帝冠様式建築として建設された本館は、現存する日本の公立美術館の中で最も古い建築としても有名です。
2015年に再整備計画が策定され、2020年春に通称を「京都市京セラ美術館」として、リニューアルオープン。青木淳と西澤徹夫が共同し基本設計を行い、現代的なデザインが加わりながら、創建当時の和洋が融合した本館の意匠が最大限保存されています。
川田喜久治は、広島と長崎への原子爆弾の投下から15年後にあたる1965年に、敗戦という歴史の記憶を記号化するメタファーに満ちた作品「地図」を発表。このデビュー作はセンセーショナルな驚きとともに、自身の初期のスタイルを決定的なものにしました。以来、現在に至るまで、常に予兆に満ちた硬質かつ新たなイメージで私たちの知覚を刺激し続けています。
本展では、戦後を象徴する「地図」、戦後から昭和の終わりを見届け、世紀末までを写す「ラスト・コスモロジー」、高度経済成長に始まり、近年新たに同タイトルで取り組んでいる「ロス・カプリチョス」の3タイトルを一堂に鑑賞可能です。この3作品はこれまでそれぞれ発表の機会を得ていますが、ここに寄り添う65年という長い時間が一つの場所を構成するのは初めてとなります。
自身の感覚の中に時代の論理を見る川田喜久治の極めて個人的な視座が捉えた時間と世界は、如何にして観る者の世界にシンクロしていくのでしょうか。
「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024」のテーマである「Source」には、起源やオリジンといった名詞のほかに、「入手」するという動詞の意味があります。レイト・スタイルにおいて「見えない地図」を手に入れた写真家は、刻一刻と変化する現代の張り詰めたカタルシスを写し、写真というメディウムと、時代と場所を自由に行き来きし、「この時、この場所」を俯瞰しようとしています。
8.From Our Windows 潮田登久子《冷蔵庫+マイハズバンド》/京都市京セラ美術館
潮田登久子は1975年からフリーランスの写真家として活動をスタート。写真家の島尾伸三との間に、1978年に娘のまほが生まれてすぐ、1888年築の東京・豪徳寺の洋館(旧尾崎テオドラ邸)に引っ越します。
本展では、娘が生まれてからの約7年間にわたり、夫や娘、洋館での暮らしを捉えた《マイハズバンド》と、自身の生活を記録に留めるように自宅の冷蔵庫を定点観測したことから始まり、その後親族や知人、友人らの冷蔵庫を20年におよび撮影した《冷蔵庫/ICE BOX》シリーズを展示。
潮田登久子は本作品について、以下のように述べています。
「2019年3月、40年間借りていた古い西洋館2階の部屋を整理中、部屋の隅の洋服ダンスの奥から、長年寝かされたままの段ボール箱が見つかりました。一眼で私が撮影、現像、プリントしたものを入れたものだとわかりました。すっかり忘れていたのですが、この部屋で島尾伸三(夫)と生まれたばかりのまほと3人で暮らしていた1978年から1985年位までの生活と、それ以前の作品が残っていて、ただ懐かしいだけでは片付けられない、当時の気持ちに引き寄せられている自分に気づくのでした。
(中略)
思いがけないこの生活の伴侶でもある冷蔵庫を眺め、開けたり閉めたりして撮影してみることにしました」。
以上、12年目を迎えた「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2024」についてご紹介しました。問題提起する作品や、思考力が深くなる作品など、どれも見逃せません。気になる方は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
■「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2024」
会期:2024年4月13日(土)~5月12日(日)
場所:インフォメーション町家 八竹庵(旧川崎家住宅)、誉田屋源兵衛 竹院の間・黒蔵、京都芸術センター、京都文化博物館 別館、嶋臺(しまだい)ギャラリー、京都新聞ビル地下1階、二条城 二の丸御殿 台所・御清所、両足院、ASPHDEL、Sfera、TIME’S、京都市京セラ美術館、DELTA / KYOTOGRAPHIE Permanent Space
時間: 会場によって異なります
チケット:パスポートチケット 一般 5,500円/学生 3,000円
京都市民割 一般 5,000円
団体割引 一般 4,950円 / 一人