「命は美しい」。公害の原点「水俣病」という事件を二度と繰り返さないために、今一度考えたいこと

2024/12/19
by 遠藤 友香

執筆者:遠藤友香


今や世界中で「公害の原点」「環境汚染の象徴」と考えられている「水俣病」。水俣病とは、1956年5月に公式に発見された、熊本県八代海沿岸及び新潟県阿賀野川流域において発生した公害病のひとつです。高度経済成長にあった日本において発生し、第二水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病と並んで、日本における4大公害病のひとつに数えられています。

水俣病は、メチル水銀が工場排水に混じることで環境中に排泄され、これらを多く取り込んだ魚や貝を人間が摂取したことで起こりました。しかし、水俣病の原因がメチル水銀だとわかり、環境に配慮した対策が講じられたのは1968年になってからのこと。長年放置された結果、数多くの方々が水俣病に罹患する事態となりました。

水俣病の症状として、手足がジンジンしびれたり、痛みや熱などを感じにくくなることが挙げられます。運動障害としては、真っすぐに歩けない、日常動作がぎこちなくなるなどがあります。また、言葉が不明瞭になったり、相手の言葉が聞こえにくくなったりします。視野が狭くなることも特徴的な症状のひとつです。重篤な場合には、亡くなる方も出る極めて重い病気です。

この度、この水俣病事件についての展覧会「水俣・京都展」が、2024年12月22日(日)まで、京都の東山・岡崎エリアにある京都市勧業館「みやこめっせ」にて開催中です。1996年の東京開催以来、26都市で16万人の入場者を集めてきた本展は、近畿地方では18年ぶり、京都では初開催となります。

認定NPO法人「水俣フォーラム」は、本展に際し、以下の言葉を寄せています。

「加害企業のチッソの技術力は、世界の化学工場界の中でもトップクラスにありました。その生産過程で副生された原因物質のメチル水銀は、自然界にはまず存在しないものであり、わずか耳かき半分ほどで人を死に至らしめる猛毒でした。水俣湾をつつむ不知火海は、沿岸漁民の主食ともいうべき魚介類の宝庫でしたが、ここに注ぎ込まれたその総量が一億国民を二回殺してもなお余りあるほどに至るまで、チッソの生産活動は続けられました。

原因をそれと知りながら隠蔽を続けたのはひとりチッソに限りません。近代民主国家を標榜するわが国行政は、同じ工程をもつ他企業への問題の波及、化学工業界への打撃、ひいては工業化政策全体への遅延を恐れて加害企業を庇護しました。新潟水俣病の発生は、いわば必然だったのです。

その後も行政は、患者補償金支払いの継続確保という名目で、チッソへの格別の融資を続行する一方、医学界の権威を動員して病像を狭く限定することによって、万を数える被害民の苦痛を否定し続けてきました。

地球環境保全が声高に叫ばれる現在に至ってようやく成立した未認定患者の救済策をみても、この構造に本質的な変化があったとはいえません。これらの事実から、企業、国家、科学、ひいては現代社会全般のありようを再検討しなければならないことに気付きます。

しかし、水俣病の発生原因それ自体であるチッソの生産活動およびこれに類する経済活動・技術開発によって、現在の化学工業の成長と日本の経済的発展、「便利で豊かな生活」がもたらされたのは否定しようもない事実です。そしてそれはこの国だけのことではありません。世界中が、数えきれないほどの「水俣病」を生み出しながら近代工業化、産業の高度化を競っています。こと水俣病から目を転じても、この「近代科学技術による工業生産を基盤とした民主主義国家システム」がもたらす多くの矛盾や危機の具体例は、枚挙にいとまがありません。しかし、それを乗り越えるための具体的な方法については、誰ひとり解答をもっていないという状況の下、社会の病状は静かに悪化しています。最大多数の最大幸福の追求が、少数派への苛烈な抑圧を生み出すのみならず、結果として多くの現代人の内に、人としての存在の希薄化と関係性の腐蝕をもたらし始めています。

二十一世紀、日本。いま私たちは、このような時代の中で生きているのです。思い起こせば、壮絶な病苦と疎外、それゆえの貧困の極みにありながら、果敢に声を上げていった方々の優しさと巨きさ(おおきさ)によって、私たちは支えられ援けられて(たすけられて)きたのではなかったでしょうか。そうした方々の言葉にあらためて耳を傾け水俣病を問い直すことは、私たちがこれから先、どのように生きていくかを考える上で少なからぬ果実をもたらすことでしょう」。

次に、本展をみていきましょう。

1.幼い少女を「奇病」が襲った

潮が軒下にヒタヒタと寄せてくる水俣の海辺に、舟大工の田中さん一家は住んでいました。6人の子どもに恵まれ、ことに5番目で5歳の静子、末っ子の3歳になる実子が可愛いさかりでした。ふたり仲良く貝をとったり、浜で遊ぶ毎日でした。

1956年4月12日、前日まで元気だった静子の様子が急変、目がトロンとして口も聞けなくなってしまいました。驚いた両親が医者に連れて行きましたが、病名もわからず、静子は泣くばかり。この町一番のチッソ付属病院に入院しました。

4月29日、今度は実子が姉におんぶされて入院してきました。あんなにおしゃまだった実子が、座ることも食べることもしゃべることもできなくなってしまいました。母親と姉は途方に暮れて、病室で泣きました。父親は医者代の工面に走りまわりました。家財道具が減り、借金がかさんでいきました。

こうして田中さん一家は、伝染病を疑う周囲の偏見や差別の中、看病に明け暮れる辛い毎日を過ごすように。やがて静子と実子は、近づく人もいない白浜の避難院に移され、さらに8月の終わりには熊本大学付属病院に学用患者として転院。そして静子は夜中も泣き止まぬまま、次第に衰え、ついに1959年1月2日、急性肺炎で息を引き取りました。8歳と1カ月でした。

実子の命は取り留めましたが、一人では食べることもできず口も聞けず、おそらく両親の死もわからないまま、今も姉のもとで暮らしています。

2.水俣病・原点から|桑原史成

報道写真家・桑原史成氏は、水俣病に関して、以下のコメントを述べています。

「1960年の夏、撮影のために初めて水俣の地を訪れた。水俣病の原因が、チッソ水俣工場の廃液であることはいうまでもないが、不運は漁民の側にもあったように思えてならない。朝に魚、昼に魚、晩に魚。水俣湾内の魚介類は、いわば漁民の主食であった。貧しいゆえに魚を獲り、貧しいゆえに魚を食べる。この生活の構造と企業の犯罪行為が複合して水俣病が発生した。そして弱者のみが業病に苦しまなければならなかった。毒魚を食べずして患者にさせられた胎児も四十路を迎えた。すでに金銭的な補償は軽症患者まで含めてひとまずの決着を見たと言えるかもしれない。だが患者と家族にとっては終生許せることなどできない、あまりに苛酷な事件なのである。

3.智子は胎内で水銀に侵された<胎児性水俣病>

「智子は“宝子”です。この子が私の胎内で水銀を全部すいとってくれたから、残りの6人の子どもがみんな元気にスクスク育っているのです。ただこの子ばかりにかかりきりになって、他の6人の子にかまってやれないのが辛いです。他の子どもが病気になっても、つい智子に比べればハシカやカゼぐらいだと思ってしまうんです」と母親の上村良子さんは語りました。

当時の医学の常識では、毒物は胎盤から胎児へ侵入しないと考えられていました。しかし智子は生後3日目、手足が小刻みに震え、その後全身がけいれんするように。以来21年間、歩くこともしゃべることもできませんでした。智子から生涯自由を奪ったのは、メチル水銀でした。

4.いつかは治ると信じていたが<慢性水俣病>

岩本広喜さんが暮らす女島は、水俣から10km程離れた風光明媚な漁村です。水俣病は縁のないことと思ってきた彼らにも、水銀は忍び寄っていました。じわじわと現れる多様な症状に苦しみながらも、いつかは治ると信じて誇りを持って生きてきました。

「水俣病ということを口にすればするほど、魚が安くなって生活ができないという漁協幹部の立場もあるし、補償金欲しさと見られるのも我慢できなかった」と語る岩本さんは、やがて組合員の水俣病認定申請を促進する決議を行い、患者運動に身を投じました。両親も妻も認定患者。岩本さんの症状は、脱力、指の感覚麻痺、足のけいれん、言語障害、腰痛、目が見えにくいなどがあります。

5.原因は分かっていた

水俣病発生報告の1年後には、魚が原因であると証明されました。しかし、販売禁止にはなりませんでした。さらにその2年後には、チッソのアセトアルデヒド排水に含まれる水銀が魚を汚染していることが、妨害を乗り越えて突き止められました。しかし、操業中止にはなりませんでした。その2年後、アセトアルデヒド製造設備からの有機水銀排出が証明され、原因は明確に。しかし世間は見向きもしませんでした。一方で患者の発生は続いていましたが、名乗り出る者はいません。なぜなのでしょうか。誰がそうさせたのでしょうか。

「奇病よりも経営が大事」 吉岡喜一社長

吉岡氏が社長に就任した1958年は、チッソの業績が悪化し、経営再建に力を注いだ年でもありました。チッソは、稼ぎ頭であったオクタノールの増産によって、この危機を乗り切ろうとし、アセトアルデヒドの急激な増産を行いました。のちに業務上過失傷害致死罪で起訴された吉岡氏は、「私は当時、水俣奇病の問題よりも経営の建て直しに邁進しておりました」と答えています。

6.科学者たちは原因をあいまいにした

熊本大学の有機水銀説は、原因究明の地道な努力の末に辿り着いた正しい結論でした。しかし、中央の学者から多くの反論が出されました。その多くは真実を隠し、原因の確定を引き延ばすための工作でした。企業の犯罪に加担した科学者たちは裁かれることもなく、今日でもこの国では同じことが繰り返されています。

7.国はチッソを守った

1955年以降の日本経済は世界的な好況にも恵まれ、1955年から1961年までの工業生産は年平均22%、輸出は年平均46%の伸びを示しました。1960年「10年間で農民の6割を減らし、所得を倍増する」という言葉を掲げて池田勇人首相が登場しました。政府は重化学工業を中心とする大企業を援助し、沿岸漁業などの第一次産業は顧みられませんでした。日本の経済成長を支えるためチッソは、オクタノールの増産に邁進していきました。この時代、便利で豊かな生活を生み出すために工場の排水が止められることはありませんでした。

8.排水を止める法律は存在した  

水質保全法 1959年3月1日施行

第5条 経済企画庁長官は、公共用水域のうち、当該水域の水質の汚濁が原因となって関係産業に相当の損害が生じ、若しくは公衆衛生上看過し難い影響が生じているもの又はそれらのおそれがあるものを、水域を限って、指定水域として指定する。

工業排水規制法 1959年3月1日施行

第12条 主務大臣は、工場排水等の水質が当該指定水域に係る水質基準に適合しないと認めるときは、その工場排水等を指定水域に排出する者に対し、期限を定めて、汚水等の処理の方法の改善、特例施設の使用の一時停止その他必要な措置をとることを命ずることができる。

食品衛生法も熊本県漁業調整規則もあった

1957年、熊本県は食品衛生法に基づいて水俣湾の漁獲禁止をしようとしたものの、厚生省から「水俣湾産の魚介類すべてが有毒化しているとは言えない」と回答され、その適用を見送りました。また、熊本県漁業調整規則は「何人も水産動植物の繁殖保護に有害なものを遺棄し、又は漏洩するおそれのあるものを放置してはならず」「これに違反する者があるときは、知事はその除害に必要な設備の設置を命じることができる」と定めていましたが、熊本県はこれも適用しませんでした。

9.新潟水俣病

阿賀野川は、猪苗代湖や尾瀬を水源とし新潟平野で日本海に注ぐ国内第2位の水量を誇る大河です。流域の人々はこの水を田にひき、舟で行き来し、コイ、ウグイ、サケなど豊かなタンパク源を手にしてきました。そこには川とともにある暮らしがありました。この阿賀野川の上流、福島県との境も近い鹿瀬町にアセトアルデヒド工場ができたのは1936年のこと。以来1965年まで30年間、有機水銀が流され続けました。

10.政府はようやく水俣病を公害と認めた

新潟水俣病の発生とチッソのアセトアルデヒド工程停止により、ようやく1968年9月26日、園田厚生大臣は「水俣病はチッソの廃水が原因の公害病」と政府見解を発表しました。水俣病公式発見から12年後のことでした。政府の意図に反して、患者たちは償いを求める行動を始めました。

11.チッソの社長が詫びた

政府見解を受けて、1968年9月28日、29日、チッソの江頭豊社長は、幹部をひきつれて患者宅を詫びてまわりました。多くの患者家族は首をうなだれて深いおじぎを返しました。しかし、中には積年の恨み、つらみの一端を涙ながらに口にし始めた者も。「待っとりましたばい、15年間! 仏様が。そもそも、あんた供は……」。全国を揺るがした激しい闘いの始まりでした。

12.1969年6月14日、提訴

「今日ただいまより、私たちは国家権力に立ち向かうことになったのでございます」。

見舞金契約によって沈黙を強いられてきた患者家族は、政府見解発表を機に新たな補償をチッソに要求しました。低額補償をもくろむチッソと国による、第三者機関への白紙委任要求に従うかどうかで患者互助会は分裂し、29世帯がチッソを相手に裁判を起こしました。

13.「おるが心、わかるか!」

ー1970年11月28日 チッソ株主総会

患者は白装束の巡礼姿に身を固め、大阪のチッソ株主総会に乗り込みました。水俣病で亡くなった人々への黙祷がなされ、患者の歌う御詠歌が流れました。そして患者たちの長年の怨みが爆発しました。

「よう分かっとりますか! あんたも人の親でしょう。両親(オヤ)ですよ。両親(オヤ)! 金では命は買えない!」浜元フミヨさんは父と母の位牌(いはい)を江頭社長に突き付けて、むしゃぶりつくようにして叫びました。

14.「社長! 同じ苦しみを味わおう!」

ー自主交渉の闘い

「ご勘弁を」と繰り返す島田賢一社長に、川本輝夫さんはカミソリを手に血書を迫ります。「わしどま、伊達や酔狂で東京に来とっとじゃなか。水俣のテントにゃ年寄りたちが待っとっとですよ。老いの身をながらえてその苦しみがわかりますか!」

15.判決を手にチッソ本社へ

1973年3月20日、原告患者はチッソの過失責任を認め、見舞金契約を無効とする勝訴判決を手にしました。原告の訴訟派と自主交渉派の患者は合体して東京交渉団となり、チッソ本社での直接交渉に臨みました。交渉は難航を極めましたが、チッソ島田社長に、人間として向き合い、患者の苦しみを受け止めることを求める魂の表現の場でした。そしてまた、判決内容を大きく超える補償内容を勝ち取る場ともなりました。

坂本トキノさんは「私は3年間、手も当てられない、崩れて泣き病んだ娘を預かってきたんですよ、この手で。夜も夜中も、親娘二人が泣いて……。そんなことが分かりますか、あんた方には……。だからあの娘がもらったお金で、あんたの子どもを買いますから。ねえ、そんで水銀飲ましてグダグダになして、あんたに看病させますから。してみなさい、そうすっと私たちの気持ちが分かるから……。体全身膿が出てね、腐れて……」と、怒りを露わにしました。

16.「仕事ばよこせ!」

胎児性患者として、一括りにされてきた彼らも40代を迎え、様々な課題を抱えています。就職先がなく働けない。友達が欲しい。恋人が欲しい。健康や生命への危機感から逃れられない。障碍者や水俣病患者として、偏見に晒されている。経済的には生きていけるけれど、身体の衰えや両親の高齢化など悩みは続きます。

17.誰も海を守れなかった

水俣湾内で捕獲された汚染魚は、ミンチにされドラム缶に詰められ、浚渫(しゅんせつ)された水銀ヘドロとともに埋められました。ヘドロ処理工事の安全性への不安から、地域住民による「工事差止め訴訟」も起こされましたが結局敗訴し、485億円と10年の歳月をかけて、水銀ヘドロの海は58ヘクタールの平地となりました。生き物の宝庫と言われた水俣の海が甦る日は来るのでしょうか。


■「水俣・京都展

会期:2024年12月7日(土)~12月22日(日)

時間:午前9時30分~午後5時
※火曜・木曜は6時、最終日は3時まで、初日は10時から

会場:京都市勧業館みやこめっせ
[展示] 地下1階 第1展示場
[ホールプログラム] 地下1階 大会議室
京都市左京区岡崎成勝寺町9番地-1

Tel.075-762-2630

チケット:一般=当日1,700円、10枚つづり券10,000円、フリーパス10,000円
30歳以下=当日1,000円、10枚つづり券5,000円、フリーパス5,000円

・入場は閉場の30分前までです。
・ホールプログラムは未使用の展示入場券プラス500円が必要です。
・入場券1枚で展示会場に1名1回入場できます。
・小学校4年生以下および障害者の介護者は無料です。
・乳幼児を伴う入場も可能ですが、他の方の鑑賞を妨げる場合はご退場いただきます。
・高校生・中学生・小学生の団体(20名以上または1クラス以上)は、事前申し込みに限り展示鑑賞は無料となります。
・20名以上の団体の展示会場入場料は前売料金となります。
・フリーパス(お名前、顔写真入り)をお持ちの方は、会期中、展示、ホールプログラムとも何度でもお入りいただけます。

水俣・京都展